こころに潜る、こころで読む

本の風景 二回目 美を求める心〜小林秀雄の「真贋」

 新しい年となりました。年をまたぐという節目は、気持ちを新たに前向きにするいい機会となります。その一方で、時代はなおも様々な問題を抱えています。「このままでいいのか。」という思いは晴れることなくオリとなって底でどんどん溜まっていくように感じられる。だからこそ、現状を打破していくという強い気持ちを持つようにと、社会全体は常に個人に働きかけていきます。改善に向けて生まれる新しいプロセス。これにより、社会構造、制度は発達、発展していきます。そして個人も。常に昨日よりは今日、今日よりは明日と、日々成長すべきという意識によって、絶えず頭で状況を理解し把握し批判する事を繰り返している。けれどもこれらの傾向が行き過ぎると、今度は別の側面が生じることも確かです。成長や発展への神話による批判精神が過ぎると、安らぎや安心感、または尊敬や畏怖の念、讃仰という感覚が薄れていくような気がします。例えば、満天の星空を仰ぎ見た時にはただ、その壮大な夜空の様子に思考を停止して見入ることが出来ますが、展覧会の絵画の前となると、絵そのものよりも、キャプションに目が行き、まず知識を入れたくなる。自然にじっくり向き合う機会よりも人為的に価値づけられた物に触れることが圧倒的に多い現代において、知的欲求や探求を煽られ、自動的に批判する傾向が強くなり過ぎた個人の精神は、健全なバランスを失っているのかもしれない。その傾いたバランスをあるべき全き精神へと回復していくことは、今後、益々必要になってくるでしょう。 

今回は、今の社会のプロセスにとっぷり浸かっている私たちの精神に清冽な山水を注いでくれるような文章と出会える本をご紹介します。 

著者の小林秀雄は明治に生まれ昭和に亡くなった近代の文芸評論の父と言われている人です。その足跡はとても大きかった。にもかかわらず、とても小さな事に神経を行き渡らせて目を凝らし続けた人でもありました。まるで精神の奥底に豊穣な泉を湛えながら世界と向き合っていたような人。シュタイナーの言う「高次の認識活動」を文芸において発揮していった人だと思います。多くの著作を残していますが、今回は、「真贋」と題された随筆集を取り上げる事にしました。

私自身、この本を10年以上も前に買って読んではいましたが、小林秀雄の紡ぐ言葉とその深遠なメッセージにはちっとも手が届いていなかった。ページを撫でるくらいの読みしか持てなかった。ところが改めて読んでみて、ようやく作者がこちらに向かって注いでくる高次の認識のエッセンスを受け取ることが出来た気がしました。

「真贋」は小林秀雄の古美術や、古典芸能について書いた数多の随筆を編集して一冊になっている本です。開かれた心で観ることを続けてきているいわば「眼」の名人が冒頭の「美を求める心」でいきなり核心をつく文章に出会わせくれます。
「見るとか聴くとかいう事を、簡単に考えてはいけない。中略
 見ることも聴くことも考えることと同じように、難しい、努力を要する仕事なのです」
わかろうとするために見るのではなくて、なんともいえないと愛情を持ってみ続ける。「美」の、人を沈黙させる「力」に対してその沈黙に堪える経験をよく味わうことから、美がわかってくると説いています。
さらに、山部赤人の有名な歌を出して、言葉には理解するための道具とは別に、言葉の「姿」があると。「姿」はただ、いいなあと感じるものであって、理解して同時に批判するものではないとあります。つまり、歌を読むことは、言葉を前にして、わからないままその「姿」を感じることだと。 

けれども、わかろうとする態度の前では「姿」を感じることはできない。「美」は何も開示してくれない。
小林秀雄が言うところの「個人のはっきりした美しさの経験」は、現代の私たちにはとても難しいものになっています。難しいけれど、わかろうとしないで沈黙したまま堪える経験こそ、美しいものの姿を感じることとなる。自分の中の感じる心をもう一度振り返ってみたくなる一文です。 

「真贋」には様々な美術をめぐる小林秀雄の経験が詰まっています。一人の確かな美しさの経験は、その強度のある文体によって、読む者にもそれぞれの「姿」をガイドし、美を開示してくれるのではないでしょうか。

「真贋」 小林秀雄  世界文化社

2017年1月12日 

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高橋香苗

book&gallary DOOR店主
1984年 結婚を機に島根県の松江に移る。2004年 子育てが一段落したことと、単発のイベントを企画したことで、交友関係の質が変わり広がっていたことから、自宅の一部で本やテーブル周りのクラフトなどを扱う「DOOR」いう店を始める。2010年 地元の物作り作家や友人たちといっしょに、隠れた山陰ならではものを探るために。手仕事を紹介するイベント「ひびきあうもの」を企開催。以来毎年行っている。国産織の白生地や草木染め生地を1人の手による縫製にこだわったオリジナルの洋服や、地元作家とのオリジナル商品も展開している。

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