こころに潜る、こころで読む

本の風景 第11回 刺繍、一つの糸、一針から生まれる世界

梅雨の真っ最中であるこの時期は、集中して1冊の本を読む事が中々出来ないものです。すぐに頭の中には別のことが浮かび、そっちが気になる、あっちが気になる。そんな時に、私はよく手芸の本を手にします。ちゃんと作るわけでもないのにいつの間にか増えていった手芸の本の数々。革のバッグ、トートバッグ、ビーズのアクセサリー、様々な編み物、レース、そしてパターンがついた洋服の本などなど、書棚にはずらりと実用手芸本が並んでいます。
やるべきことを前にして、ついそこから逃避したい心理が働いていると言ってしまえばそれまでですが、手芸の本はたとえ作れなくても、じっと眺めながら自分ならばこんな生地を使ってここはこうしてああしてと、想像を膨らませ時間を忘れて楽しめるのです。

今回は、そんな眺めているだけで楽しめる手芸の本をご紹介します。タイトルは「樋口愉美子の刺繍時間〜5つの糸で楽しむ植物と模様」。樋口さんは「2色で楽しむ刺繍生活」「1色刺繍と小さな雑貨」という本も出しているように、使用する糸の数をあえて限定してとても魅力的な図案にしています。刺繍の命とも言えるオリジナルの図案は、一目見ると樋口さんだなあとわかる柔らかくて愛らしい世界が展開されます。そう、樋口さんの刺繍の世界を一言で言い表すとすればズバリ「愛らしさ」。その図案の一つ一つからはこんなメッセージが流れています。「この世に生まれて物言わぬ草木や鳥や昆虫は、私たちと同じ地球にいて同じ空の下にいて、自然からの恵みをたくさん受けながら、生き生きと関係し合い調和の世界を作っている」と。名も知らぬ小さな草にも与えられた形があるように、刺繍で表された草花にもしっかりと与えられた形があり、それぞれが固有の与えられた形を持ちながら関係しあって一つの世界へ収まっている。そこに選ばれた色と色がこれ以上はないくらい調和して、見るものを豊かに誘います。ですからこの本は、ページをめくるたびに小さな一針から始まる一枚の完結された親和的世界をじっくりと楽しむ事が出来るのです。

刺繍をする人はもちろんのこと、刺繍をしなくても、糸が作り上げる素晴らしくも「愛らしい」世界は、見ているだけで十分に想像力が掻き立てられて自分だけの物語になっていきます。うっとうしいこの時期だからこそ、緻密に構成された豊かな刺繍の世界で、しばし現実から離れてみるもいいかもしれません。

「樋口愉美子の刺繍時間」 樋口愉美子  文化出版局

2018年6月28日 

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高橋香苗

book&gallary DOOR店主
1984年 結婚を機に島根県の松江に移る。2004年 子育てが一段落したことと、単発のイベントを企画したことで、交友関係の質が変わり広がっていたことから、自宅の一部で本やテーブル周りのクラフトなどを扱う「DOOR」いう店を始める。2010年 地元の物作り作家や友人たちといっしょに、隠れた山陰ならではものを探るために。手仕事を紹介するイベント「ひびきあうもの」を企開催。以来毎年行っている。国産織の白生地や草木染め生地を1人の手による縫製にこだわったオリジナルの洋服や、地元作家とのオリジナル商品も展開している。

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